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東京地方裁判所 昭和57年(ワ)9703号 判決

原告

丸山利栄

右訴訟代理人

井上嶽

平松暁子

被告

北村洋一

右訴訟代理人

石原寛

仁平勝之

吉岡睦子

加藤廣志

高田利広

小海正勝

右加藤廣志訴訟復代理人

野々山哲郎

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実〈省略〉

理由

一被告が被告病院を経営する医師であること、原告が、昭和五五年三月三日、被告との間で、原告の右母指腱鞘炎を治療することを内容とする診療契約を締結し、同日から同年四月二三日まで被告病院に通院して、被告の主張1記載のとおりの治療を受けたこと(ただし、同年四月二二日にも治療を受けたのかどうかの点は除く)、同年四月二二日、原告の右耳が聴こえなくなつたこと、以上の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二原告は、原告の右耳難聴の原因は、被告が原告に対して使用した薬物の副作用にあると主張する。そこで、右の点について検討する。

1  まず、原告の右耳難聴が本件診療期間中に生じたものであることは前示のとおりであり、また、原告本人尋問の結果によれば、原告には耳鼻に関する既往症がなかつたことが認められる。そしてこれらは一応原告の主張に沿う事実といえる。

2  しかし、〈証拠〉によれば、被告が原告に対して使用した薬物(デカドロン、ユベラ、ボルタレン、オパイリン、ミオブタゾリジン、モビラート)については、その単独使用、複合使用のいずれの場合でも副作用として難聴が発生したという報告例はないし、右各薬物の能書にもこれらが聴覚に対して影響を与えるという趣旨の記載はないこと、かえつてデカドロンは難聴の治療薬として用いられている程であること、以上の事実が認められる。

のみならず、〈証拠〉を総合すると、原告は、右耳が聴こえなくなつた後、被告の紹介によつて佐藤医師の診察を受けたほか、北島耳鼻咽喉科医院、豊島病院においても、耳鼻科専門医による診察を受けたが、いずれの病院においても、原告の症状は突発性難聴といわれるもので、その原因は不明であるとの診断を受けたこと、そして、この突発性難聴とよばれるものは、従前聴覚等に異常があつたかどうかにかかわりなく、突然発生するのが特徴であるとされていること、以上の事実が認められるのである。

3  原告は、被告の治療を受け始めてから種々の異常が生じたと主張し、その本人尋問において異常の内容を説明している。しかし、それらの異常の多くは、そもそも聴覚障害と関連を有するのかどうかが疑わしいものである。一部には、一応聴覚障害との関係を否定し去ることはできないもの(耳に異常音を感じる等)もあるが、原告が供述する症状の程度、内容に照らしてみると、それが聴覚障害の前徴といえるようなものであつたのか、また、そもそもそれらの異常が、被告の使用した薬物の副作用によるものであつたといえるのかが疑問とならざるを得ない。したがつて、原告の主張する異常が薬物の使用と難聴との因果関係を認定するのに十分な証拠であるとはいい難い。

4  以上検討した点を総合してみると、本件において被告が使用した薬物が原告の難聴の原因であつたと認定するのには、いかにも証拠が不十分であるといわざるを得ない(なお、原告は難聴が生じた当日にも被告の診療を受けたと主張し(ただし、被告はこの点を否認している)、これを因果関係が存在する根拠の一つとしている。しかし、たとえ右の主張事実が認められたとしても、これだけで因果関係を肯定することはできないし、以上の外には因果関係を認めるべき証拠はない)。

三右のとおり、本件においては被告の責任の前提となる事実的因果関係を認めることができないのであるから、この点で、既に原告の請求は理由がないものといわざるを得ない。しかし、なお、念のため債務不履行の有無についても検討しておく。

1  まず、一般論として、医師が治療のため薬物を使用する場合には副作用発生の危険に注意し、薬物の過剰投与を避けるとともに、投与中は患者に異常が生じていないかどうかを慎重に観察すべきであることは原告が主張するとおりである。しかし、本件の場合、被告に原告が主張するような右義務の違反があつたとは考えられない。以下(2、3)にその理由の要点を指摘する。

2  薬物の過剰投与について

〈証拠〉によれば、被告が本件において使用した薬物は、いずれも腱鞘炎治療のために一般的に用いられているものであること、そして被告は右各薬物の使用に当たつては複合使用による相互作用の危険等について、各薬物の能書や薬物相互作用早見表などによつて検討をしたうえで、安全であることを確認し、通常用いられている程度の量を使用していることが認められる。したがつて、被告の薬物使用について過剰投与など不適切な点があつたとはいえない。

また、デカドロン注射の間隔についても、原告、被告の各本人尋問の結果と、第一項において認定した事実とを照らし合わせると、右注射の施行はほぼ七日置き程度に止めておくのが望ましいとされているものであるところ、被告が行つた注射も、概ね右の標準に合致している(六日置きに行われたことはあるが、これも右の標準に反しているとまではいえない)ことが認められる。したがつて、被告が行つたデカドロン注射が過剰であつたとはいえない。

3  薬物投与中の原告の容態観察について

前述のとおり、本件において被告が使用した薬物の副作用により難聴が生じた例は存在しないのであるから、被告に対して、予め難聴発生の危険を予想し、その診断のための特別な容態観察を行うことを要求することは不可能を強いるものといわなければならない。したがつて、このような場合、被告としては、通常要求される程度の一般的な原告の容態観察を行い、その結果原告からの訴え等により難聴発生の危険が認められた場合に、右の危険に対応する措置を採れば足りるものと解すべきである。

これを本件についてみると、〈証拠〉によれば、原告が本件診療期間中に被告に対して訴えた異常は、(ア)デカドロンの注射を受けた右母指に熱感が生ずる、(イ)筋肉の異常(その内容については争いがある)の二点だけであつたこと、そしてこれらは注射の結果として通常生ずる症状等であつて、難聴等の薬物使用による副作用発生の前徴と見られるようなものではないこと(筋肉の異常の内容については、前述のとおり争いがあるが、原告、被告のどちらの主張が正しいとしても、これが、難聴等薬物使用の副作用による障害発生の前徴であつたと考えるべき的確な証拠を見い出すことができない)、被告が原告から聴覚障害発生の事実を訴えられたのは昭和五五年四月二三日が初めてであり、被告は右の訴えを聞くと直ちに投薬を止め、知り合いの耳鼻科専門医(佐藤医師)を紹介してその診察を受けさせていること、以上の事実が認められる。

右の各認定事実に照らしてみると、原告から聴覚障害の発生の事実を告げられるまでの間、被告としては、聴覚障害発生の危険(或いはより広く薬物使用による副作用発現の徴候)を何ら認めていなかつたのであるから、薬物の使用を継続したことが診療債務上の義務に違反するものということはできない。また、障害発生の申告を受けた後の処置は適切であつたといえる。

なお、原告は、前記((ア)、(イ))の異常のほか、(ウ)身体が右傾化し、平衡感覚に異常が生じたように感じたことがある、(エ)右耳にゴーッという異常音を感じたことがある(ただし、原告はこれらの異常は時おり現われただけで、しかも短時間のうちに消失したとも述べている)等の異常も発生した、と供述している。しかし、原告がこれらの異常を被告に申告しなかつたことは原告自身が認めているところであるから、被告としては診療当時右のような異常の存在を知り得なかつた訳であるし、問診等により原告から右の異常を聞き出し得なかつたこと自体が、一般的な容態観察義務に違反すると断定し得るだけの事情も認めることはできない。

そして、以上のほかには、被告に原告の容態観察につき不十分な点があつたことを認めるに足りる証拠はない。

四以上のとおり、本件においては因果関係、債務不履行のいずれについてもこれを認めることはできないのであるから、原告の請求は理由がないものとして棄却を免れない。よつて、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する(昭和五八年一二月二一日口頭弁論終結)。

(大城光代 春日通良 鶴岡稔彦)

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